2013年 07月 28日
炎天下、木屋町通の幕末史跡をたどる。(その1 四条~三条)
いよいよ炎天下を歩きまわりに出かけましょう。
(午前中の様子は こちら と こちら)
今日は幕末の史跡めぐりです。
四条から三条、二条まであたりの木屋町通沿いには、
土佐藩や長州藩などの諸藩の京都藩邸、尊攘派志士の寓居などが立ち並んでいたことから、
幕末維新のときの襲撃事件跡などの史跡がたくさんあるのです。
それらを順にたどっていくとしましょう。
まずはお茶。(なんでやねん!!)
川端通り沿いにある せせらぎすへらさん で嘯月セット。
嘯月というのは、京都の老舗和菓子屋さんですが、
ここはお店に急に買いに行ってもだめで、
前もって電話等で注文をして決められた時間にとりに行かないといけないという、
観光客の私にはなかなかに敷居が高いお店なのです。
でも、このせせらぎすへらさんでだけ、その日にできた嘯月さんのお菓子がいただけます。
嘯月さんのきんとん(つくりは季節で変わります。)
実はお訪ねした時にはまだ嘯月さんからお菓子が届いていなくて、
届くのを待っていたから正真正銘の出来立てです。
あんこがしっとりでチョーなめらか!
でもって、ごくたまーに小豆の皮の食感を感じさせ刺激を作るという絶妙のバランスです。
甘さが控えめなので、純粋に小豆の香りを楽しめます。
お茶一番茶、二番茶の両方を出してくださる。
頼んだのは岡山のほうじ茶、『深山そだち』の冷たいヤツ。
ちょっぴり苦みがあって和菓子によく合います。
せせらぎすへら 嘯月セット1200円
さて、
木屋町通りを四条から上がっていくことにいたしましょう。
(以下、青字部分、ウィキより抜粋)
まず歩きだしてすぐあるのが、古高俊太郎の屋敷跡。
古高俊太郎(1829年 滋賀県生まれ)
父・周蔵が山科毘沙門堂門跡に仕えたのに際し京都へ移住。
尊皇攘夷を唱える梅田雲浜に弟子入りした。
古道具、馬具を扱いながら長州間者の大元締として情報活動と武器調達にあたったが、
新選組に捕縛され厳しい取調べを受けた。
取り調べは、2階から逆さ吊りにされ足の甲から五寸釘を打たれ、
そこにろうそくを立てられ火をつけられるという拷問だったという。
その後、獄舎に収容されたが、禁門の変の火災に乗じて逃亡することを恐れた役人により、
他の囚人とともに斬首となった。
享年36。
そこから路地を抜け、河原町通りに出てすぐにあるのが中岡慎太郎寓居跡。
中岡慎太郎(1838年 高知県生まれ)
武市瑞山が結成した土佐勤皇党に加盟して志士活動を展開する。
土佐藩内で尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、速やかに脱藩、長州藩に亡命する。
禁門の変、下関戦争では長州側で戦い負傷。
のちに活動方針を単なる尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させ、
坂本龍馬らとともに薩長の和解および薩長同盟を結実させる。
その後、長州の奇兵隊を参考に陸援隊を組織し自ら隊長となるが、
京都四条の近江屋に坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃され瀕死の重傷を負う
(近江屋事件)。
龍馬は即死ないし翌日未明に息絶えたが、
慎太郎は二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について詳細に語ったという。
享年30。
で、その坂本竜馬と中岡慎太郎が襲われたという近江屋事件があったのがこちら。
近江屋事件
龍馬は寺田屋事件後、三条河原町近くの材木商鮓屋を京都での拠点にしていたが、
のちに醤油商の近江屋へ移った。
慶応3年11月夕刻に中岡慎太郎が近江屋を訪れ竜馬と話をする。
夜になり十津川郷士を名乗る客が龍馬に会いたいと訪れ、
それを取次ごうとした山田藤吉が後ろから斬られる(翌日死亡)。
その時の大きな物音に対し、龍馬は「ほたえな!(騒ぐな)」と言い、
刺客に自分たちの居場所を教えてしまう。
刺客は音もなく階段を駆け上がりふすまを開けて部屋に侵入、龍馬と慎太郎を斬る。
(その時の様子については諸説あり)
竜馬はすぐに死亡したが、中岡慎太郎は2日間息があった。
凶行時、騒動に気付いた近江屋家人の井口新助が土佐藩邸へ知らせに駆け込んだが、
助けが駆け付けたときには刺客は既に去った後だった。
この近江屋事件の実行犯については、新撰組説、薩摩藩陰謀説などいろいろありますが、
現在では、京都見廻組による犯行だったというのが定説になっています。
近江屋主人が駆け込んだという土佐藩邸はすぐ真向かい。
石碑は高瀬川沿いにあります。
こちらはもとは土佐藩邸内にあったという岬神社。
土佐稲荷と呼ばれています。
土佐藩邸跡碑に近くには本間精一郎遭難跡碑というのもあります。
本間精一郎(1834年 新潟県生まれ)
早くから江戸や京で学び尊王攘夷の思想に目覚め、薩摩や土佐に倒幕を説いた。
しかし、利発で勝気な気性の彼は論争に強く自己の実績を過大に喧伝していため、
薩摩や土佐の貧しい出の浪士たちから反感をかい、殺害される。
そのため、彼の力量、評価にあたう成果を残さなかった。
享年29。
いやしかし、幕末の志士達の享年はみな若いですねー。
それぞれにこの国の未来を思い、志半ばで死んでいった若者たち。
彼らの熱い動きを見続けて、今も静かに流れる高瀬川・・・
さて、こちらは坂本竜馬が住んでおり、海援隊の本部ともなった酢屋です。
竜馬さんについては、小説、ドラマ等々数知れず、
ファンの方も多いと思うので、
坂本竜馬(1836年 高知県生まれ)
土佐郷士に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、
貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。
薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど
倒幕および明治維新に影響を与えたが、
大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。
享年31。
近くには竜馬の奥さんだったおりょうが独身時代に住んでいた住まいのあともありました。
また、こちらは維新後も政府の要人として活躍した後藤象二郎の寓居跡。
後藤象二郎(1938年 高知県生まれ)
土佐前藩主で事実上藩政を執っていた山内容堂の信頼を得て、
公武合体派の急先鋒として活躍した。
龍馬の提案とされる船中八策に基づいて将軍・徳川慶喜に対し大政奉還論を提議。
薩摩と土佐の盟約を締結するが、倒幕路線を歩む薩摩との思惑のずれから盟約は解消。
しかし提携解消後も大政奉還への努力を続け、
容堂とともに連署して大政奉還建白書を提出。
慶喜がこれを受けて大政奉還を行った。
維新後は大阪府知事や参与、左院議長、工部大輔などの要職に就くが、
征韓論争に敗れて板垣退助、西郷隆盛らと共に下野する。
その後、板垣や江藤新平・副島種臣らと共に愛国公党を結成し、民選議院設立を建白する。
この方は明治30年に60才で亡くなるまで活躍されています。
でも寓居跡の立て札はなんだかビルの裏の物置って感じのとこに埋もれてて、
さびしいんだなあ・・・
夭折した志士達の方が人気が高いのはなぜかしらん。。。
・・・といっているうちに、
四条通りから北上してしたら、いつの間にか三条通りにやってきました。
その三条通りに面してある池田屋騒動跡碑。
池田屋事件
幕末の京都、尊王攘夷派は政変後の勢力挽回を試みており、
京都守護職は新選組を用いて市内の警備や捜索を行わせた。
そんな中、古高俊太郎を捕えた新撰組は、
拷問により尊王派による京都襲撃計画を自白させた。
さらに古高逮捕を受け、尊王派が計画の実行・中止について協議する会合が
池田屋において行われることを突き止め、ただちにその場を急襲した。
この戦闘で新撰組は9名を討ち取り4名捕縛。
続く翌朝の市中掃討でも20余名を捕縛した。
この池田屋事件は、幕府側の記録にはあるものの志士側の記録には一切なく、
『木戸孝允日記』にも、このとき池田屋で行われていたのは、
新選組に逮捕監禁されている古高俊太郎を救うための会合としか記されていない。
証拠といえるものはも壮絶な拷問を受け、無理矢理自白させられた古高が語ったとされる発言のみで、
その古高も早々に処刑されており、
客観的な証拠が乏しく、新撰組のでっちあげだという説もあります。
しかし、真相はともかく、
長州藩はこの事件をきっかけに激高した強硬派に引きずられる形で挙兵、上洛し、
禁門の変へと歴史が続いていくのです。
志士たちが駆け抜けた(・・であろう)三条大橋。
それにしても、いや疲れたわ。。。
四条から三条まで、一区画分しか歩いてないのに汗だく。
あ、あかん、休憩せな、倒れそうや・・・・
・・と、たどり着いたのは、
三条京阪の駅の上(駅は地下だからね。)にある商業施設 KYOUEN の中の和風カフェ
芋処 CHAIMONさん
2種の食感の大学芋
と、御茶五茶という名前のお茶。
お芋部分アップ。
いやあ、観光客向けのお店だと思って今まで避けていたけど、
(・・て、自分も観光客のくせにね。。)
めっちゃ山盛り、食べごたえ抜群!
それに、お芋がおいしい!!
たっぷりのお茶と一緒にお芋をつまみながら、
(フォークも出してくださるけど、手でつまんじゃった方がおいしいよね。)
本を読んでゆっくりしてしまいましたよ。
CHAIMON 二種の食感の大学芋 630円
御茶五茶 578円 (セットだと1050円)
さて、幕末の史跡はこの後まだまだあります。
長くなってしまったので、続きはまた後日。
今日は京阪電鉄の建物裏にある小川亭跡でおしまいにしときましょう。
小川亭は当時、勤皇の志士たちによく利用された旅館です。
女将のてい女は志士たちの面倒をよく見たことから、勤王ばあさんと呼ばれて慕われていました。
たどった史跡のある場所はこちら・・・
三条~二条辺りの史跡は こちら をご覧ください。
by michirudesu
| 2013-07-28 14:31
| 京都な日常