2013年 07月 29日
木屋町通りの幕末史跡をたどる その2(三条~二条あたり)
木屋町通りを四条から三条まで幕末の史跡をたどりながら上がってきました。
(四条~三条の史跡については、こちら )
つづいてまだまだ木屋町通りを歩いていくことにいたしましょう。
前回と同じく、青字部分はウィキからの抜粋です。
三条通りと木屋町通りの交わったところのすぐ近くに吉村寅太郎寓居跡があります。
吉村寅太郎(1837年 高知県生まれ)
土佐藩の庄屋であったが尊攘思想に傾倒して土佐勤王党に加盟。
平野国臣から島津久光の率兵上京とこれに合わせた浪士たちによる挙兵計画を聞き、
それに参加すべく脱藩。
しかし寺田屋事件で捕縛され土佐に送還、投獄される。
釈放後、再び京都へ上り天誅組を組織して挙兵するが、八月十八日の政変で情勢が一変。
幕府軍の攻撃を受け戦死した。
享年27。
またその場所からいくらも行かないところに武市瑞山の寓居跡も。
ちりめん洋服発祥の地・・なんていう石碑と並んでいるところがご愛敬。
武市瑞山(1829年 高知県生まれ)
優れた剣術家であったが、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて
攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。
吉田東洋を暗殺して土佐藩を尊王攘夷に転換させることに成功した。
一時は京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、
八月十八日の政変により政局が一変、前藩主・山内容堂によって投獄される。
1年9か月近い獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。
この武市瑞山という方、通称が半平太。
行友李風の戯曲『月形半平太』ののモデルともなった方です。
ただし劇中の半平太は女性を魅了する色男として描かれているが、
半平太は1歳年下の妻・富子とは睦まじい暮らしぶりであったという。
続いてもう少し木屋町通りをあがると、佐久間象山寓居跡の碑が、
駐車場入り口の隅っこ、チョーわかりにくいところにあります。
(行き過ぎちゃったじゃないか。。。。)
佐久間象山(1811年 長野県生まれ)
成人後江戸に出て詩文・朱子学を学んでいたが、
松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛に任ぜられて以降兵学を学ぶことになる。
そして西洋兵学の素養を身につけることに成功し、
藩主・幸貫に『海防八策』を献上し高い評価を受けた。
また大砲の鋳造にも成功しその名をより高めた。
これ以降、象山は兵学のみならず西洋の学問そのものに大きな関心を寄せるようになり、
日本初の指示電信機による電信を行ったほか、
ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図していた。
しかし再来航したペリーの艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て失敗、
象山もその事件に連座して入獄、蟄居を余儀なくされる。
その後、一橋慶喜に招かれて上洛し公武合体論と開国論を説いたが、
「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山には尊皇攘夷派の志士の反感をかい、
三条木屋町で暗殺される。
享年54。
ここで御池通りにやってきました。
広ーい御池通り面して、ホテルオークラが堂々とたっていますが、
このホテルオークラのところに長州藩邸がありました。
石碑がホテルの玄関にちゃんとたってあります。
ホテルの横には桂小五郎の銅像も。
桂小五郎(木戸孝允) (1833年山口県生まれ)
尊王攘夷派の中心人物で、薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通とともに
「維新の三傑」として並び称せられる。
明治元年以来、数々の開明的な建言と政策実行を率先して行い続ける。
五箇条の御誓文、マスコミの発達推進、版籍奉還・廃藩置県、
四民平等、憲法制定と三権分立の確立などを提言し、明治政府に実施させた。
享年43。
こちらは桂小五郎が住んでいた幾松。
芸妓幾松は桂小五郎の奥さんになった人です。
ところで、桂小五郎がまだ木戸孝允と名乗っていたときに住んでいたのは、
ここからもっと北上して、二条通りを通り越したところにある日本旅館石長さんのあたり。
石長さんの玄関には立派な石碑があります。
さて、幾松の向かいあたり、高瀬川の向こう岸に、大村益次郎と佐久間象山の遭難碑が並んでいます。
大村益次郎遭難碑
佐久間象山遭難碑
大村益次郎(1824年 山口県生まれ)
長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し勝利の立役者となった。
兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、
あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。
三条木屋町上ルの旅館で教え子たちと会食中、元長州藩士の刺客に襲われ重傷を負う。
その後術を受けるも敗血症による高熱を発して容態が悪化し死去した。
享年46。
また、ここから二条通りに出る直前、高瀬川の出発点のあたりは、
江戸時代にこの川を開削した角倉了以の別邸があったところですが、
この角倉了以の屋敷はのちに山形有朋の別荘、第2無隣庵となりました。
やれやれ、これで四条から二条辺りまでの木屋町通りにある幕末の史跡を
だいたいすべてたどったことになります。
でもホントのところ、
出てくる人物がいったいどういうお方なのかをほとんど知らずに回ってたもんだから、
要は石の写真ばっかりを撮ってたという話。
いやはや、炎天下、石碑ばっかり見て歩いて、いったい何がおもしろいんだか。。。
まあ、あとでここに書くためにいろいろと調べたから、
大変勉強になりました^^;
三条から二条辺りの史跡の場所は下の通り。
四条から三条は こちら をご覧ください。
前回は休憩ばっかりしてたようだけど、今回はないのかって???
それはまた今度。。。。
by michirudesu
| 2013-07-29 11:24
| 京都な日常