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   暑いっす。

   鴨川はコダックとコイキングだらけっす。

   ていうか、この猛暑にこんな子たちを探してウロウロするのは
   自殺行為っす。。。




   スマホもあっちっちになります。
   電池も速攻でなくなります。

   なのでドトールさんとスタバさんのコンセントに
   大変お世話になっております。

   ていうか、充電までしながらやりつづけるなよ!って話か。。。














まあ、それはさておき、
今回京都へ行ったのはモンスターたちを集めるためではなく、

こんなに暑いのだから、涼しくなる場所に行ってみよー

・・ということで、こんなスポットをめぐってまいりましたよ。
   






まずは、鉄輪(かなわ)の井戸。



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下京に住む女が自分を捨てた男を恨み、貴船神社に丑の刻詣りをしていますと、
鉄輪を頭にのせ三本の脚に火をともし、怒りの心をかきたてると鬼になれるとお告げがありました。
夫はそれ以来悪夢に苦しみ・・・・(略)
この鉄輪の女が安倍清明に調伏され、
ついにこの鉄輪井あたりで息が絶えてしまったと言い伝えられています。

               青字 鍛冶屋町敬神会の解説書より抜粋








ちょっと井戸をのぞいてみましょう。。。



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なーんにも見えない。
(見えたら怖いわ!!)



この井戸の水を汲んで縁を切りたい人に飲ませると縁が切れるという話ですが、
今では井戸は枯れているそうです。


社近くの手水場に、
『この水は持ち帰らないでください。』って書いてあったけど、
誰かと縁を切るために持ち帰ろうとする人がいるってことですか。。


女の執念は怖いよねぇ・・・。







女の執念といえば、この鉄輪の井戸から東へ、
鴨川に出たあたりにある河原院(かわらのいん)跡。




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河原院は光源氏のモデルともいわれる源融の邸宅ですが、
源氏物語のなかで夕顔が六条の御息所(みやすどころ)の生霊に殺されたのが
ここだったとされています。


生きていながら怨霊になって恋敵を獲り殺してしまう・・・・




ブルブル・・

どうです?
少し涼しくなってきましたか???



でも六条御息所も本当は哀しい女性なんですよね。










さてここのすぐ南、
鴨川の六条河原は、古くから時の権力者に反抗した政治犯たちが数多く処刑された場所。



保元の乱や本能寺の変の敗軍の将たちをはじめ、
関ヶ原の戦いに敗れた石田三成らが処刑されたのもここ。

豊臣方の将や残党など、著名な武将や政治家の多くがここで最期を迎えています。






そう思ってみると、なんだか怖い気がする河原。。。



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ここで処刑された石田光成の首は、ここから北へいった三条河原でさらされました。









その三条河原のすぐ近くには端泉寺(ずいせんじ)というお寺があって、
そこは豊臣秀次のお墓があるところです。




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秀次は太閤秀吉の甥ですが、子どもに恵まれなかった秀吉に請われて養子となります。

そして数々の戦で武功をあげ、豊臣家の次世代を継いでいくかと思われていたのに、
突然秀吉から謀反の罪を着せられ、切腹させられるのです。

愛妾淀君に秀頼が生まれ、秀吉はその子に豊臣家を継がせたくなったからとも、
また秀吉のすすめる朝鮮征伐に秀次が異を唱えたからだともいわれていますが、
そんなさまざまな要因がからまって、
秀次は切腹の上、その首はさきほどの三条河原にさらされます。


それだけでなく、秀次の一族は一族郎党みな引き出されて、
次々と処刑されていったのです。

四人の若君と一人の姫君、
そして側室として仕えた若く美しい女性たち・・・
その数はなんと合計39人。

一人ずつ処刑されては大きく掘られた穴に投げ込まれたそうです。






泣き叫ぶ4、5才の幼児までみな処刑されたという河原・・・。


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今は悲惨な気配もないけれど、
ここは処刑されたものたちの数々の怨念が残っている ・・・かもしれない 場所なんですよねぇ。。。









秀次たちの処刑の際に遺骸が投げ込まれ埋められた穴の跡には大きな塚が築かれました。
この塚の位置に現在の端泉寺の本堂は建てられたとされています。



こちらがご本堂。



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こちらは秀次公のお墓です。



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秀次公はさぞかしこの世に恨みを持ったと思われますが、
このお寺で鎮まってくれているでしょうか。。。。









さて、京都にはこの世に恨みを残した怨霊たちがいっぱい。





ここのお墓の主もそのひとり。



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崇徳(すとく)天皇。


平安時代の中ごろ、鳥羽天皇の子として生まれますが、
実は鳥羽上皇の祖父である白河法皇と鳥羽天皇の中宮(お嫁さん)とが密通して出来た子だという噂がありました。

息子と思っていたわが子は本当は自分の祖父と妻が不倫(?)してできた子・・
と疑ってしまった鳥羽上皇はもはや息子をうまく愛せません。


なんやかんやあって、一度は天皇の位についたものの、
ほとんど無理やり鳥羽上皇の別の息子に天皇の位を譲らされてしまう崇徳。

そのあともいろいろと鳥羽法王(=鳥羽上皇、出家したんだって・・・)に虐げられるわけですが、
ついに法王が亡くなると、
なんと自分が実権を握るために兵を起こそうとしている・・との噂をたてられ、
平清盛、源義朝らの軍勢に攻め込まれる羽目に(保元の乱)。

この戦に敗れた崇徳上皇は讃岐に配流されます。






さてここからがだんだんと怖い話に・・・



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隠岐の地で崇徳上皇は戦死者の供養と反省の証にと、お経の写本に精を出し、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出します。
けれども後白河院は、
「呪詛が込められているのではないか。」
と疑ってこれを拒否し、写本を送り返します。
これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って写本に   
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん。」
「この経を魔道に回向(えこう)す。」
と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされています。













保元の乱が終結してしばらくの間は、崇徳院は罪人として扱われていましたが、
そのうちに後白河や忠通に近い人々が相次いで死去。
それに引き続いて大事件や災害が起こり、
人々の間には崇徳院の怨霊説がささやかれだし、
そのイメージが長く受け継がれることになるのです。









扉の隙間からのぞいてみた崇徳天皇のお墓。


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この御廟がある場所は、なんと祇園のど真ん中。
花街の真ん中で大怨霊は何を思っているのか・・・










不運な皇族というのは他にもいて・・・



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ここ玄武神社に祀られている惟喬親王(これたかしんのう)もその一人。




文徳天皇の第一皇子として生まれ父帝に寵愛されたのに、異母弟が即位してしまう。

その後、地方の役人を歴任するも心は晴れず、
二十八才の時に病を得て出家、隠遁生活を送るという悲運の皇子です。





そんな彼を祀った玄武神社は、夕方行ったこともあり、
なんだかちょっと怖い雰囲気が・・・



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悲運の皇子は隠遁生活を送った田舎の地で轆轤(ろくろ)の技術を考案、伝承したとされ、
その技術を用いて木製のお椀やお盆などをつくる木地師の祖となったという伝説を
大原や滋賀の各地に残してます。










さて、気分だけでも涼しくなろうと、
いろんな怨念がこもった地をうろうろしているうちに、
お盆も終わり、いつの間にか8月も後半へ・・・



『そんな場所ばっかりうろついて、変なモン連れて帰ってこんといてや!』


なんて言われましたが、
連れて帰ってきたのは、こんな子だけだよーーん。。。





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実はまだつづく。。。






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by michirudesu | 2016-08-17 09:50 | 京都な日常 | Comments(0)

好きなことしかしないっっ!!
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